はじめに
ひすいこたろう著
に記されている
5人の侍について、
自分が忘れずに意識していたい部分を
アウトプットしていきます。
本日2人目
『高杉晋作』です。
吉田松陰からの教え
高杉晋作は、
若くして吉田松陰が主宰する松下村塾に入り、
松陰の教えを深く受けました。
松陰は「志を持ち、誠を尽くすこと」の重要性を説き、
日本の現状に危機感を抱いていた。
特に、外国勢力が日本に影響を及ぼす中で、
松陰は開国して国を強くする必要性を説き、
幕府に対して強く反発していました。
上海留学とその影響
高杉晋作は1862年に、
長州藩の命を受けて上海に渡ります。
彼が外国の進んだ技術や文化を
直接目の当たりにする
貴重な経験となりました。
- 外国の実情を目の当たり
上海に滞在中、高杉は急速に発展していく
欧米列強の植民地経営や技術力、
経済力に圧倒されます。
彼は、攘夷運動を叫ぶだけでは
日本が世界に立ち遅れてしまうことを痛感。
ここで彼は、外国との積極的な交流と技術の導入が
日本の未来に不可欠だという考えに変わります。 - 攘夷から開国へ
この留学経験により、高杉は
それまでの「攘夷」から「開国」へと
方針を転換します。
単に外国を排除するのではなく、
外国の力を取り入れ、国内を強化する
必要があると考えるようになります。
藩を動かし、討幕運動を先導
上海留学から帰国した高杉は、
長州藩の攘夷派が再び外国船を攻撃し、
報復を受けたことに強い危機感を抱きます。
攘夷政策がもはや現実的ではないことを
知っていた高杉は、藩内の旧態依然とした
考え方を改革しようと尽力しました。
彼は藩内の保守派を説得し、
奇兵隊を率いて藩を掌握します。
長州藩は幕府との対立を深めていき、
結果的に薩摩藩と同盟を結び、
薩長同盟を通じて倒幕運動を主導する。
たった1人でもやる
背景
1864年、長州藩は幕府と対立し、
第一次長州征伐で幕府からの攻撃を受け、
藩内は混乱していました。
特に、長州藩内部では
「恭順派」と「攘夷派」に分かれており、
恭順派が藩政を握り、幕府に対して
妥協する方針を取っていました。
一方で、高杉晋作は幕府に対して
徹底抗戦を主張していましたが、
彼の考えは藩内で孤立していました。
功山寺決起
1864年12月15日、
長州藩の恭順派が主導権を握る中で、
倒幕を目指す攘夷派が
圧倒されている状況にありました。
この絶望的な状況下で、
高杉晋作はわずかな手勢を集め、
下関にある功山寺で決起します。
最初は味方がほとんどいない状況で、
最初の決起時には高杉晋作のもとに集まった兵士は
たったの12人ほどしかいませんでした。
この少人数での決起は、
長州藩の大勢に影響を与えるには
程遠いものでした。
高杉は「たとえ一人でもやる」という
強い決意で行動を開始します。
この行動が、後に奇跡的な展開を呼び込みます。
効果
高杉の決起に感化された者たちが
徐々に集まり始め、次第に人数が増えていきました。
彼は、奇兵隊や農民出身の志士たちを
味方に引き込み、倒幕派の勢力を強化します。
この行動が長州藩内の恭順派を一掃し、
藩を再び倒幕路線に引き戻すことに成功。
結果として、
長州藩は倒幕運動の中心となり、
薩摩藩との薩長同盟を結び、
最終的に幕府打倒に繋がる大きな力となる。
意義
「功山寺決起」は、
わずかな人数で幕府と対決する道を選び、
絶望的な状況を覆した高杉晋作の行動力を象徴しています。
彼の行動は、
「たとえ一人でも、正しいと信じる道を進む」
勇気と決断の結果であり、
多くの志士に大きな影響を与えました。
早すぎる死
高杉晋作は、1867年に結核により
わずか27歳で亡くなります。
高杉晋作の影響と評価
高杉晋作は、吉田松陰からの教えを受け継ぎ、
その教えをもとに行動し、
実際に藩や国家を動かしました。
彼の「行動力」と「先見の明」は
後の日本の近代化に大きな影響を与え、
松陰の教えを実践する者として
彼の生涯は今でも多くの人に尊敬されています。
感想
身体も弱く、ボンボンだった高杉晋作が
吉田松陰の教えを受けてもすぐに行動できなかった。
上海に行く事で、植民地されている上海の人の扱いや
欧米列強の文化に触れて、考えが変わります。
若いうちに実際に体験したことは、
人生に大きな影響を与えるのだと気付かされます。
経験して得た先進的な、発想に周囲がついて来れなくても
行動に起こすことの偉大さを感じました。
自分も若い時に色々と行動しておけば良かったと
思うと同時に、やりたいことはやった上で考えよう。
子供達には出来る限り、色々な事を体験させたいと
思いました。
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小さな習慣が未来を変える
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